ここ1か月ぐらいでページターナーズとか視点倉庫を見たり聞いたりたくさんリピートしたせいか、「食べ飽きた」って感じで再生してもコレジャナイ感ある。昨日はサンホラ流行語大賞の配信を見て、今日は熱血タイガース党。大竹のスローボールは坂本誠志郎のサインか、みたいなことを言われていたけど、セットポジションではまだ全然、足を上げてもまだ、腕をあげたぐらいで速いボールはやめようとか思うらしい。
今日は朝と日中はそれほどでもなかったけど、今(21時頃)は寒くて、もう湯たんぽを用意して布団の中で来年の予定を決めたりなんかいろいろしようと思う。寒い。
来年はオケコンと甲子園をハシゴすることが決まりました。
来年はマジで収入の範囲内で生活して遊ぶことを誓います
お察しの方もいるだろうが、今めっちゃ本を読んでいる。何か読めている。でも小説は読んでなくて新書とかなんかそういうフィクション以外の何かばっかりだ(例外が廃王国の六使徒の少女文学版の1巻)。
その昔休職していた時、外出訓練と称して汽車に乗って離れたところの図書館に行って、社会人なりたて向けのビジネス書を2時間ぐらいで20冊とか読んでた。これは速読とかじゃなくて、知ってるところはさくさく飛ばすしあまり知らないところはゆっくり読むということをしていた。あの時のような重湯のような読書だ。
そしてこれは本が読めなかった時にタイトルで買った本を今読んでいる。読みながらびっくりしたのがここだ。
読書でも試してみていただきたいのは「ゆっくり」読むことです。「ゆったり」といった方がよいのかもしれません。
速く読みたければ速く、遅く読みたければゆっくり、眠たくなったら、そこで本を閉じる。そんな当たり前の読書です。
本を読むのに最適な速さなどありません。その人に合った速さがあるだけです。
速読という言葉の背後には、多読がよいという価値観が潜んでいます。速く多くの本を、たしかに読むことができれば、それは素晴らしいことです。しかし、なかなかそうはいきません。
どんなに速く、多く読んだとしても、そこにたしかな手ごたえがなければむなしいのではないでしょうか。
読書において養っていかないとならないのは、「たしかな」感覚です。
何がびっくりしたってわたし今まじでこの2行目みたいな読み方してるんですよ。読みたいだけ読んで、ここつまらないなと思ったら割と読み飛ばすみたいな感じで、急にじっくり読み始めて、おかわりしたり、寝たり。
リルケが詩人になりたい若者に掛けた言葉で「多くの人が歌い上げるものではなくて、どんな素朴なことでも自分にとって切実なことを言葉にしなくてはならない」ということがあったり、人生の1冊は外を探しているだけでは見つからない、自己との対話をはじめないといけないとかいってて、この引用元は読まないといけないのではと思った。
公開講座の文字起こし書籍化で、概ね母娘の支配とか共依存とかそこから来る自責感っていう本だった。
ページターナーズで自己肯定感という単語は実はよくないという話で気になってちょっと気になって読んでみたけど、わたしはその部分が読み取れなかったので、わたしは読む時期を逃したか、その時じゃないんだと思う。
まあね、わたしはもう母とは話すことも触れることもできないところまで離れてしまったので。
いくら本を買ったところでもう誰に何を言われることもなったので、漫画(単行本)以外については紙の本に回帰している今日この頃。文喫東京でうきうきしながら買った本だ。
国語に関する世論調査では63%の人が月に1冊も本を読まないと回答する一方でSNSなどで活字には毎日触れると回答した人が約75%いるという。電子書籍の普及が顕著のこの頃では現代の「読書離れ」は実際のところは「読書形態の多様化」で「読書離れ」という表現は必ずしも正確ではないというはじまり。
紙の読書の優位性は日本に限った話ではなくアメリカのバレンシア大学の実験でも紙媒体がデジタルより読解力で勝るという結果が出た(※リラックスした状態での読書ならば媒体による差はないが、時間的プレッシャーがかかる場ではデジタルが読解力が劣る)
「脳が一度に処理できる視覚情報には限界がある」という話で
地上波なんかごちゃごちゃしとるよな。画面がうるさい。 pic.twitter.com/kEiVyNgxVt
— まろん (@maronu) November 22, 2024
この1枚目のような状態では、内容の理解度や記憶への定着率が低下してしまう可能性があるということや、耳で聞く読書についてや、「読書の効能」の話が盛沢山だった。読書をすることで「結果的に」頭が良くなる脳科学的メカニズムについても説明されていた。
現役ドラフトだった。井上広大がロッテへと旅立った。
最近の不調は11月から延々県外へ走りまくって土日両方休まず5日〜6日働くということを繰り返してるからだなと思うことにする。
考察する若者たち 三宅香帆からの2冊目として読もうと思って買ったけど、予想外の展開が来た。
わたしはそもそも倍速再生はまったくせず、映像もの自体疲れるのでもとよりあまり見ないという人間です。異文化コミュニケーションな1冊でした。
「花束のような恋をした」について最後までふたりがどうなるのかを友達に細かく聞いてから見た、2倍楽しめたという話の流れで
もし予備知識なしで観て物語の細かいところが理解できなかったり、細かい演出を見逃したりしてしまった場合、モヤモヤが残ってしまう、それを避けるためには、最初から教えてもらったほうがいい、と
(P56)
twitterやってるオタクなら「(映画名)見るならこれを見て(もしくはこれを見てから行って)」というのを見たことが一度はあるだろうと思うんですが、もしくはこういう意識ゆえの「善良な行動」なのかなあと思って。
十全に楽しむために万全に準備運動をしてから飛び込みたいから、あれが心の底からありがたいと思っている人がいるんだなあと思ったし、「作品に快適だけを求める傾向もまた『観客の幼稚化のひとつでは』(P184)」に焼きマシュマロやないか……と思うなどした。
盛り上がっている話題を邪魔にならないようにただぼーっと聞いていてはいけない。傍観者に徹してはいけない。既読スルーなどもってのほか。積極的に参加し、気の利いた一言で場を盛り上げる、かき回す。もしくは、多くの人がついてこられる程度の個性的すぎない個性を積極的に発信すべし----。
(P139)
冒頭からずっと「理解の範疇外の宇宙人」だったのが、読み進めるにつれてあまりにも生きづらすぎないか……? と思うことが多々あった。いうてわたくし思春期時分にはインターネットがなく、高校生の時には一部の人間のみがポケベルを持ち、LINEはやってないよやる気ないよとでかい声で言い続けてここ数年でようやく触り始めたぐらいの、地方生まれ地方育ちで、どういう環境で生活すればこうなるのかぴんと来ない。
Twitterではたまに見かけるけど、たかだか140文字程度でバックグラウンドを慮るのは失礼な話だし、わたしから遠く離れたところで生きてほしい(アルゴリズム的に「目に入れたくないツイート」に物理的に触るとどぅわっと増えるので、「表示を減らす」か「関連性がありません」をタップしている。
なまじ直近に読んでいたのが考察する若者たちなので、スキップとローファーと、あと「スマホ時代の哲学」が脳の片隅をちらちらしつつ、読んだ。