カテゴリー「 単行本 」の記事
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対談とか年表とか仕事風景とかそんな感じの本。
どういう人なのか知りたいよ、みたいな人は読むといいかも。
対談2本収録されてて、それぞれゴールデンスランバーが書き終った所と出版後ぐらいの時期。
ゴールンデンスランバーが本屋大賞受賞したときの、どこかの新聞に載ってた万城目学さんのエッセイで「桜庭さんが『伊坂さん可愛い!』ってキャッキャウフフしてたー」って感じのことを書かれてた覚えがあるんですが、ほんとうになんか、伊坂さん可愛いです。
最初のほうはなんか「どれぐらい斎藤さんのことを好きか」について喋ってる気がする。
斎藤さんのほうは「知らない人だ……」って思いながら読んでたけど最後のほうのページで「歩いて帰ろうとかもそうですけど」ってあって、むむ?と思って脚注をみてみたら「ポンキッキーズで起用され」とある。
歌歌えるぐらいには知ってるよーーーー!って思った。テンション上がった。
しかし次のページで対談は終わりである。しょんぼりした!
あと歩いて帰ろうで脳内再生候補が後ひとつあって、そっちは高音女性声で、なんだこれはーとしばらく考えてたらボイパが入ってきたのでぽち@ハモネプだーーーーって分かった。
——女性で好きなタイプ、苦手なタイプというのはありますか?
伊坂 メールで絵文字や顔文字を使うのは、嫌悪というか嫌いで、使っていなかったんですよ。でもこの間初めて(斎藤さんの曲を聴いて)編集さんに「斎藤さんの曲、すごくかっこいいですヽ(´▽`)ノ」って送りました(笑)。何でもかんでも使うんじゃなくて、ちょっとしたニュアンスを伝えるのにはいいかもしれません。(P50)
伊坂 自分の仕事はあくまで小説を書くことだけですし、映画の力を借りて爆発的にヒットしたい!とか、そういう気持ちもないですし(笑)、映画の原作を書いている人って思われたら、つらいと思うんですよね。だからなるべく、映画になることで自分の仕事に影響がなければいいなあ、と最近は思っています。
(P103)
——斎藤さんの仙台のライブのときに、伊坂さんがファンから「伊坂さんですよね」って声をかけられていて、「よく言われるんですけど違うんですよ?」っておっしゃっているのを目撃してしまいました(笑)。
伊坂 本当に(人前が)怖いんですよ。(P105~106)
これはいい青春音楽小説!
語り手は大人になって随分経った後の僕、津島サトル。
サトルは音楽家一族(音楽家でないのはサトルの両親のみ)の中で育ち、走れるようになるぐらいにはもうピアノの前に座らされていた。中学の頃はピアノはやめてチェロをはじめ、芸術高校入学を目指して必死に練習と勉強に励み、ニーチェに傾倒して、心の中では下位を見下ろす上位の人間のつもりだった。いい中二である。
そして結局は芸高受験は失敗し、祖父が学長をしている学園の高等部音楽科に通うことになる。
幼稚園から大学まであるけど共学は大学と音楽科のみ、今年の男子音楽科受験生は7人のほぼ女子校学園。
サトルのいい中二病ぶりにときめきすぎたよ!
一緒に下校する友達がいないのも昼休みにクラシックのCDをかけようとしてしらけられたりするのは彼らが僕のレベルについてこれないだけで、彼らに同情する必要はないし高貴な人間は自分を基準に物事を判断する、とニーチェを読んで理解した(と思いこめる幸せを持っていたとのちに現代のサトルは語る)
オケ合宿での鏑木先生の怒鳴りぶりがすごい。のだめSオケ編の千秋なんか目じゃない。
全員が同じテンポで弾ける、楽譜通り弾けることなんて当然、それどころか指揮者の要求に応じられることができることが求められている。しかしオケ結成してからまだ数ヶ月のオーケストラである。今日できたことが明日もできるとは限らない。だから「音が出なけりゃ出るようになるまで一人でやってこい!」と罵倒され「時間の無駄だ」「ポンコツオーケストラ」と失望される。
難敵難曲にぶつかって叩き潰されても立ち上がって成長していく姿は10代ならではですね。
オーケストラ発表会にホームコンサート、祖父の弾いたバッハの曲の意味とか眩しすぎます。
現代のサトルにいたるまでいかなる挫折があったのか続きがいつ出るのかすごく気になるところ。
2巻への引きもありますが、1巻だけでも十分まとまっています。
「さよならピアノソナタ」が音楽小説として好きな人にはとてもおすすめしたい一冊です。
恋というのはうじうじして神経質で無意味で、馬鹿げた妄想に満ちており、食事もチェロの練習も睡眠さえも、どうやってするのか忘れたようにぎこちなくなって、誰もなんにもいわれてないのに、恥ずかしくなったり腹ただしくなったりする、そんな陰湿な感情の総体だ。
(P156)
「こんなの私、一回で完璧に演奏できると思ったんだもん! こんなに間違えるなんて思ってなかったよ! ちっきしょー」
南は憤然とヴァイオリンを構えた。
「もう1回。次は絶対合わせる!」
僕もメトロノームを動かして、弓を弦にあてたが、引き始めようとして吹き出してしまった。(P198)
小学生の私、帆奈(ハーフ)と20代後半の斗六(トム)おじさんの日常。
明治大正昭和の古い建物が移築されてそれぞれ明治大正エリア・昭和エリアと分かれて、その時代に合わせた店や旅館か理髪店なんかも入って村として実際に運営している<明治たてもの村>が舞台。
ちょっと児童文学的。
トムおじさんは元引きこもりで、今は修復がメインの(具体的な名前は知らないんだけどもハチクロで竹本くんが自分探しの旅の途中でバイトしたお寺とか直すあの)仕事をやっている。今もあんまり人と話すのは得意ではない。
対する帆奈は両親が別居することになり、両親とも忙しく親の務めを果たしたいけど無理。悩む親を見て日本の祖母の家で暮らすことを決めた。そうしたらトムおじさんと会えるからだ。
ずっとニューヨーク暮らしで、日本の小学校の暮らしになじめず「ハーフ×背が高い×目立つ×転校生」といういじめにあう典型で、それなら学校になんか行かないでいいわと小学校自主休業中。
トムおじさんと交流を深めるうちに帆奈は学校に行ってみようかなと思うようになる、とかそういう話ではありません。割とホームドラマっぽい。本当に日常の話だった。
最初の展開だけ見ると最後に紗絵があらわれて帆奈がトムの背中を押して幸せになるオチだと思ったのであれーーーとおもった。
坂木司の引きこもり探偵をちょっと思い出した。あれとは違ってちゃんと男と女の組み合わせですが。
ブログの書籍化。
鉄板の面白さである。
「男性作家が書く女性キャラ、女性作家が書く男性キャラは、だいたいにおいてドリームである」
と書いたが、MAさんから、
「『オキャマ作家が書く女性キャラ』は例外ではないか」
という大変有意義なご指摘をいただいた。おおー、たしかに! たとえば○○氏(生物学的には男性)の書く女性キャラは、ドリームなんて一片たりともないものな。(P51)
この辺がこの前ついったーでうららさんと真宏さんが話してた気がする……! とおもった。
「小汚いイエス・○リストみたいな感じで!」でリクエストに応えられる(ようにがんばる)美容師さんはすごいとおもった。さすがプロだ……とかおもった。
なんと後味の悪いラストかー(※褒め言葉です
「人が死ぬ瞬間が見たい」
そう思い由紀は病院へボランティアに行き、難病の少年と会う。
敦子は特別養護老人ホームの手伝いに行きたくさんの老人に囲まれ、妙に無愛想な男性と組むことになる。
由紀と敦子はお互いを親友だと思いつつ、気まずかったり距離を置いてたりする。
一人称で視点が2つ。由紀と敦子が交互にやってくるんだけどもたまに「今どっちが喋ってるんだったっけ」って分からなくなるので一人称チェックをしていた。わたし=由紀 あたし=敦子 なのだ。
目的は一緒だけど違う方向に向かって歩き出して、微妙にニアミスを続けてなかなか合流には至らない。
こんな出来事がそれに繋がるんだ!とかそこで終わらないんだ!?みたいな。
冒頭にマイフレンド・フォーエバーが出てくるので懐かしいなーっておもった。私も体育館で見た。
そんな初湊かなえでした。
日記本。今も炎の営業日誌として更新が続いている日記の2004年から2008年5月までの一部(全部を収録するのはできないから選んでちょっと書き直したりもしてるらしい)
本屋めぐりをする営業マンとして・熱狂的浦和レッズファンとして・2児の父として。
本と本を取り巻く環境について。2004年は本屋大賞が始まった年で、それに関することもたくさん。
またネットやメールによって「現在の若者たちほど習慣的に活字を読みかつ書くような若者がこれほど大量に出現した時代っていうのは多分なかったはずだ」というのも納得できる。ただし、である。
だから何なの? と疑問を感じてしまう。
なぜなら僕は出版社で働いているからだ。出版社の商品は活字ではなく、あくまで本や雑誌なのだ。どれだけ若者がメールやネットで文章を書こうが読もうが、彼ら彼女らが、本を買わなければ、僕らに利益は生まれないのだ。(略)
僕が憂えているのは、そういった活字という原材料のことではなく、本離れ、あるいは単刀直入に本が売れないことなのだ。(P46~P47)書店員さんの待遇はもう使い捨てといって良いような状態で、意欲があって、能力もある書店員さんが生活のため辞めていかれるのはしょっちゅうだし、ベテランの書店員さんなんていうのは、ほんとうに少なくなってきている。本来書店員という仕事は、経験職のはずなのにこんなことで良いのだろうかと思うけれど、そういうところに追い込んでいるのは僕たち出版社なのかもしれない。
(P103)