カテゴリー「 単行本 」の記事
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1巻とはえらい色が違います。
1巻はキャッキャウフフしてて青春で音楽でオーケストラなので、さよならピアノソナタとかのだめカンタービレ好きな人はどうですかどうですか書いてた覚えがあるんですが、2巻は「気安く触らないでよ(゚д゚)」という雰囲気です。
これは「現代のサトルが過去を振り返っている物語」という設定で挫折があったことも既に語られていたけど、まさか1冊のうちにこれだけ「挫折と喪失」が凝縮されていようとは思いもよらなかった。
サトルたちは2年生に進学した。今年の1年生は優秀だとか今年のオケ課題曲は去年の夏に市民オケでやったリストの「交響詩 プレリュード」。その日から阿鼻叫喚の日々がはじまる。鏑木先生はまた怒鳴り倒している。
そしてサトルに転機が訪れる。ある日父が笑顔で言った。「ハイデルベルクへチェロを習いにいかないか。(サトル叔父の妻)ビアンカが参加しているオーケストラの主席チェリストが練習を見てくれるといっている」
各所でサトルはぼっこぼこである。ふるぼっこである。
音楽家同士であるため恋人の南にもハイデルベルクに行く際も応援されるどころか妬まれる。
ハイデルベルクでもそのあとも悪い方向にしか転がらないのである。
ラストのサトルが好きだった先生を退職せざるをえない状況に追い込んだことってどうなん! どうなん! ておもった。高2こえー。
つ、つづきを早く……
ブンゲイ・ピュアフルでも読めるけど、縦書きで紙で読みたいし船に乗れ2の様式で行くならいいところで切れてしまう。凄い展開のところでぶった切られたらわたしは しぬ!
南は閉じた口の中で奥歯を噛みしめ、涙のこぼれる目で僕を睨んだ。それは女子高生の可憐な涙なんかではまったくなかった。愛情はあっても理解の薄い環境で音楽に取り組んでいる女性の、裕福で恵まれた環境にいる僕への、どうにもならない悔し涙だった。
(P116)
自分がこれまで、本を読むという名目でやってきたことの正体が、一気に見えてきた。理解できたわけでも、共感できたわけでもない、ただ難解そうに見える本を選んで、さも理解できてでもいるかのように頁をめくり、さも共感できたかのように本を閉じ、その様子がちゃんと周囲の人に目撃されたかどうかを確認する、たとえそこに誰もいなくても、自分自身を目撃者にして、ごまかしてしまう。自分をだます。そんな茶番劇を僕はこれまで何年間も「読書」ということにしていたのだ。
(P176)
「僕が君に、誰も殺させはしないからだよ」先生はいった。「哲学上の結論として、僕は君に、人を殺してもいい、と今いった。その代わり殺されても仕方ないともいったが、それでも殺していいといったことに変わりはない。あれは哲学上の結論であって、君をそそのかしたんじゃない、なんていい逃れをするつもりは僕にはないんだ。人に何かをいう人間は、いったことについて全責任を持っている。とりわけ人の命に関わることはね(以下略)」
(P258)
凄く痛い小説だった。作品が痛いんじゃなくて、登場人物が痛いのでもなくて、読んでるこっちの胸が痛い。
学校で飲み会あるって聞いたけど誰にも誘われなかったから「誰かに誘われた」風に店までやってきた。
そこでの「中2病をこじらせた女子(ぼっち)の孤独」描写がとてもいたたまれない。
こんな状況に立たされたらもう泣きながら帰るわな(゚д゚)と思った。
ちなみに私は席移動ができるなら席を転々としつつグラスもしくは酒瓶片手に喋り倒すほうです。
二十歳前ならまだやり直せるよ……むしろ更生的にはラストチャンス……とか思ったり凄くはらはらしながら読んだ。
この表紙は何事だと思ってたけどちゃんと理由があったので読み終わったあと表紙見てふいた。
Amazonレビューいわく「メディアに露出しまくり」だそう1だけど私が見るようなのには出ないらしく見たことはない。
でもどこかで拾ってきたこの本のタイトルは覚えてたのでこの本を実際に読むまでずっと「ほんたにゆきこ」さんだと思っていた。表紙にも大きく「もとやゆきこ」とふりがな振られていて初めて間違いに気がついた。
敗北感。
私の胸に広がる、この複雑な気持ちを言葉にするならばこれだ。敗北。何に敗北したのかはよく分からんよ。でも飲み会で席を奪われ、隣に座っていた人物にはさりげなく移動され、今こうして追いやられるようにみんなから離れた場所にポツネンと佇みながら誰ひとり気にされることなく存在する自分。(P45)
何しろ昔から『天然最強説』を唱えてやまない私だ。やつらは狙ってないぶん、滑ることを知らない。滑らない人間ほど強いものはない!
(P80)
- 書かれた日付を見ると古めだったので今はもう「だったそう」かもしれないけど [↩]
絶対、最強の恋のうたの木戸さんが出てきてびっくりした。
「僕」と北海道からやってきた人妻研究員、「僕」の妹、バイト先で出会った坂本のふりをしている木戸さんの話で、僕と恵はすげーバカップルで2人でいるときはなんかずっとキャッキャウフフ話している。
純愛だけど不倫なんだなあと思う。ちょっと蝶々喃々を思い出す。
こっちもどろどろすることはない。喋々喃々と違うのは2人の行く先が暗示されていることかなあ。
木戸さんの登場は嬉しいサプライズでした。しかし「この話はどこに向いていくのんか。……えー終わったー」という話だったなあと思います。
まともなロマンを求める人は、誰からも相手にされず、誰からも大切にされず、一人で守り続けるしかない。本当はこういう人が、人知れず、世界の孤独とか哀しみとかを、一身に引き受けてしまう。誤解は前提で、理想は敵で、正解は最初からないのだ。
(P145)
よくある感じの創作指南本かと思えばインタビューの本だった。
そして須賀しのぶさんや高殿円さんが相当分量とって載っていた。登場する作家さんは1ページ程度のアンケートも含めて小学館から本を出してる方が多い気がする。実際に数えてみたら違うのかもしれませんが印象的に。
この本でようやく数学的じゃないほうの帰納法が何者か分かりました。
私評論っぽい用語になると途端に頭上にはてなが飛び交いまくります。「マジックリアリズムの極地!」とか「セカイ系!」とか。何度解説されても分からない。
「少女向けのツボは少年向けに比べて断然狭い」という話の中で
アサオ 今は「お姫様」? 「姫系」以外には何? 「逆ハー」は、僕もちょっと知ってるんですけど、あとどんなパターンがあるんですか?
須賀 ないです。
アサオ えっ!
須賀 ないです、ないんですよ。マジでこの二つだけ。(P117)
姫嫁な路線以外も出てくるといいなあ。
いくら「時代は繰り返す」とはいえ現代に日の目が当たる時代はくるんだろうか。
特に椋本さんのは読んでるこっちがとてもしょんぼりした。
椋本 今は特にそうですね。知り合いの編集さんに、「こういう作品に付けたいんだけど、この手の絵の人知らないかな?」って言われて「この人とかいいんじゃないですか?」って言ったら「この人、凄く合うと思うんだけど、前ウチのレーベルで誰々さんと組んで(作品が)あまり売れなかったから、ちょっと印象が悪くて出せない」と。それはマッチングが悪かったんでしょう? 貴方達のミスでしょ? 絵描きさんのミスではないのに……。でも、それで印象が悪くなっちゃうっていうのが現実にあるんだ……厳しいなあ、と。
(P159)
今は特に、というのは「売れなきゃ次がない」というのに繋がっています。
星兎以来久しぶりに寮美千子作品を読む。すごく幻想的な物語でした。
マミコは海辺の小さな別荘地でおじいさんと二人で暮らしていた。
ある日マミコは海岸で「おじいさんお気に入りの流木」が流されていることに気付いて流木を探しに海岸を走った。流木に見えたものは木馬だった。気がつくと時間が止まった海岸にいたマミコは影が動き出し、影は「世界の果てにあんたの名前と木馬の角を捨てに行く。何もかもを忘れるために」と言い走っていった。
世界が多重になってる感じです。ふわっとします。
この作品は楽園の鳥 —カルカッタ幻想曲—の作中作だそうなので、こちらも気になる。
毎日、老人といっしょに海岸を散歩して、小石や貝殻を拾うほどに、マミコのなかで、ある美学が育っていった。昨日までいちばん美しいと思われた欠片が、きょうはもう、そうは思えなくなる。もっと美しいものを見つけてしまったからだ。その度に、箱の中身は徐々に入れ替えられ、ほんとうに美しいと思われるものだけが残っていった。やがてそれは、箱の中身を無造作につかみとって床にばらまいただけでも、息を呑むような美しさを見せるほどに、洗練されていった。
(上巻P93)
少女だったり老婆だったり、顔かたちも違ったが、それが同じ一人の女であることが、男にはわかった。なぜなら男はその女と、いくつもの人生をともに歩んできたからだ。世界の果てから果てへ、時の荒波を越えて出会い、別れまた出会ってきた。ばらばらに生まれ落ちても、必ず互いを探し出し、手を握りあってきた。
(上巻P314)
愛されることは閉じこめられること。必要とされることは立ち去れなくなること。そうやって、老人は少女を閉じ込めてきた。そして、ふいに姿を消してしまった。
(下巻P250)
本はどのように作られているか(企画段階とか編プロとかフリーライターとか新刊洪水とか)
どのように読まれているか(直木賞芥川賞・本屋大賞・アサドク)
対談とかそんな感じの内容。付記でフォローされてるけど基本的には2005年?2007年時点での話です。
情熱大陸に出てた幅充孝さんとの対談があった。
週間としての読書を身につけるという意味で、朝の読書運動は意義深いと思う。私は最初、この運動について聞いた時、「みんなで一斉に本を読むなんて気持ち悪い」と感じたが、教師が読む本を選んだり、読んだ結果について評価したりしないところがいいと考えるようになった。(略)自分で本を選んで毎日少しずつ読んでいくという経験は、将来きっと何らかのかたちでプラスになると思う。
(P107)
朝の読書はわたしはまるで縁がなかったけど実施状況グラフを見てるとおもしろいなあとか思った。
一斉に読み始めるところを想像すると不気味ではあるけど、感想文の提出とか読む本の事前チェック1がないのならよいのでは、とおもった。細切れにはなるけど、本読みなれてない人は10分程度で飽きるよねっていう。2
永江 クライアントからの依頼は増えているでしょう?
幅 仕事の依頼はくるんですが、金額とか、インタビューを含めた進め方を言うと、「え?」みたいな感じ。去年、テレビの「情熱大陸」に出たら、テレビって怖いですね、めちゃめちゃ電話がかかってくるわ、メールが来るわ、すごかったんですけど、進めていくと「そんなに金や時間がかかるんだったら、やめますわ」みたいなことがたくさんあった。(P196)
一応映画がもとにあるけどノベライズではなく原案という扱いになっていた。
かつくらのインタビューでは映画と小説では違う展開と見たような覚えが……
沖縄の離島、主に南風原島1・石垣島の辺りが舞台。
ぐぐってみたところ、収録されている3作のうち映画が下地となっているのは最後の「群青」
ピアニストの由起子が南風原島へ来て、島一番の漁師である龍二と出会いの話「紺碧」
龍二と由起子の娘、涼子と幼馴染みの一也・大介の小学生時代の話「三原色」。
「群青」に関しては相当ベタな部類の話だと思います。恋愛と別れと再生とエロ。
「R-18な幸福な食卓を沖縄でやってみました」みたいな?
これは心理・情景描写が好きなのでたぶん映画は見ないほうがいい気がするなあと思いつつ、読んだ後映画情報を見に行って龍二役が佐々木蔵之介と知って驚く。もっと屈強な海の男を想像していた。2
木陰から見える海と空は刻々と黄金に染まりゆき、西に傾いた太陽が一也の柔らかそうな前髪を茶色く透かす。美しい少年だ、とその横顔を眺め、涼子は思う。小学生のころ小さかった背は中学に入ったとたんぐんぐんと伸び、今や大介を追い越すか追い越さないかの勢いだ。そして放課後、週に三日は漁協の船に乗って潜りの練習もしているため、身体じゅうにしなやかで弾力のありそうな薄い筋肉がついていた。美しい身体も顔も、きっと海の神様に愛されているのだろう。
(P84)
家に帰れば待っている家族が居るというのに、何人もの漁師が命を落としているというのに、懲りもせず、死んだ漁師の魂が漂っている海に、生きている漁師は潜る。(略)肩で息をして水面を睨みつけるあの男の顔は本物だった。五分間、何も聞こえず、空も見えず、足場も見えない海の中で、やつは何度死の訪れを見ただろう。