カテゴリー「 単行本 」の記事

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顰蹙文学カフェ

文学な鼎談集でした。
中原昌也さんって多分この本ではじめて知ったんだけどすごく面白い人だった。
ひんしゅくについて語ったり新聞社の連載で出版コードとかある?とか文学賞の選考会ってどんな感じになってるのとか小説についてとか最近どう? みたいな話をしていた。
インタビュー集とか対談本は時々すごく読みたくなる。本に関する話は特に人が話してるのを聞いたり読んだりするだけでもおもしろい。そういう機会がないから飢えてるんだろうなあとおもう。

高橋 本当は厳しい批評って、必要だと思うんです。さっきの江藤淳とか平野謙って、自分が言われたらきついかもしれない、でもその通りだもんなというようなことを書くわけじゃない。本当に真剣勝負みたいな批評で、それはいいことだと思う。ただ、実際にそういうことを書いても、つまり本当に批評的な意味で書いているのに、個人的な恨みみたいに見えちゃったりする。
山田 うん、あるね。でも、そう思わせないのも芸でしょ?
高橋 やっぱり狭い境界だなと思う。そういう中で、あいつのつくった作品がくだらないと書くと人格否定みたいな受け取り方をされかねない。そんなことになるぐらいだったら書かないほうがいいとなっちゃう。江藤さんや平野さんが現役でいた頃は、もう少しこの文壇というか、文学の世界は広かったような気がする。批評の言葉と、そういう個人的な罵倒みたいなのの違いが、見えやすかったと思うんだけど、その世界がだんだん縮小しているので、直接的に突き刺さるような気がするんだよね。

(P77)

高橋 小説って、書いたものがあって読者として読んでというのは一対一でしょう。もちろん、それがふつうに小説を読むっていうことだけど、集団で読む楽しさもある。僕は選考会という場が好きなんですが、あそこって批評の場でもあるんですよね。実際に候補の作品も扱っているけど、そのうちそれはどうでもよくなっちゃって「小説っていったい何だ」という話になってしまう。

(P243)

高橋 選考会で一番おもしろいのは、いくら読んでもよくわからないものがあるじゃないですか。それをみんなと話し合って、もしかしてわかるかもしれないと思って持ち寄る時。
山田 「へえ、こういう読み方あるんだ」って思うもんね。同時に「こういう読み方もあるのか。でも私は違う」と絶対思う。

(P245)

ひぐらしのなく頃に礼 賽殺し編 (講談社BOX)

コモリさんちで気になってふらふらと。極最初のほうは見覚えがあった。
多分インストールしてさわりだけやって放置しててうみねこがはじまったものとおもわれるー。

惨劇を打ち破った梨花が不注意で「何の罪も後ろ暗いところもない雛見沢」に迷い込む話だった。
どこまでいっても梨花の話ばかりで部活がなければ血生臭い話もない。
ベルンカステルの魔女だったり正しく賽殺し。

日々ごはん〈11〉

高山なおみ日記本も11冊目。予告されている最終巻まであと2冊。
収録されているのは2007年3月から8月まで。この巻は高山さんが割と頻繁に中国に出かけている。
その間はまとめで日記が入るのではなく「スイセイ留守ごはん」としてスイセイ氏の日記が載っている。
自動車教習所に入校したり練習したりしているのですがその練習法に転がる。凄い。

この前買ったyom yom (ヨムヨム) にいしいしんじさんと一緒に高山さんの日記が載っていた。yomyomのこの号は「だれもがすなる日記」特集がされているので、興味のある方はどうぞ(n'∀')η
ここに載っていないもので面白かったものといえば

今朝子の晩ごはん (ポプラ文庫)ビロウな話で恐縮です日記とるこ日記—“ダメ人間”作家トリオの脱力旅行記

この辺かしらー。
日々ごはんとか今朝子の晩ごはんは正しく日記なので、「人の日記を読むのが好き」という人ではないと多分面白みはないと思います。

左京区七夕通東入ル

モリミーとはまた違う意味でファンタジーな「京大生ラブコメ」
京都大学だと明記されてないけどキャンパスの位置とか学生の描写とか寮の位置とかから察するに京大だな(・ω・)と。アリサの大学はぐぐってみたところでは同志社女子大学かなあとおもった。

花は京大文学部の4年生で、就職活動も単位取得も終了しあとはモラトリアムを満喫するだけだ。
七夕の日、花はひょんなことから人気の高い女子大へ通うアリサに誘われ合コンへ行くことになった。
そこへやってきたのが龍彦だった。花は数学が大の苦手で龍彦は数学科1に在籍しているという。花は龍彦に誘われ学生寮のたこ焼きパーティに行ったりデルタで花火をしたりする。
登場人物は他に修治(アリサの彼氏)・アンドウくん・ヤマネくん(龍彦の友人。花を入れた4人でよく遊びまわっている)
お互い大学生で、花は別にはじめての恋愛でもないのにすごく初々しい。キスどころか手を繋ぐような描写さえあったかなあというような感じなのだ。ごはんを食べに行ったり十条まで撤去自転車回収デート行ったりはするのだけど。

ところで「花ちゃん」と関西弁で見るたびにわたしの脳内では「なちゃん」ではなく「はちゃん」と再生しよるのでした。山田花子風。龍彦は「数学科の大学生」ということで時々たゆんの偉い人が走っていった。

夜は短し歩けよ乙女の学園祭のシーンで韋駄天コタツがあちこちで出てきて、わたしはこれは「モリミーの創作だろう」と思っていたんだけど、こちらでも学園祭で「何故か設置されているコタツ」が登場しているのでコタツ云々はもしかしてガチで存在するものなんだろうか、と思った。

「地元が舞台の小説」だと近すぎて逆に直視できないところがあるんだけど、京都とか大阪とかが舞台の小説はそこそこ近くて地理がわかって親しみが持てるなあとつくづく思う。

たっくんのことを恋人と呼べるかどうかは別として、少なくともわたしは恋に落ちている。(略)
どうしてこの人なんだろうと思う。客観的に見て、異性にもてはやされるタイプとはいえそうにない。目を引くような美男ではないし、話がものすごく面白いわけでも、ことさらに気がきくわけでもない。世間一般はさておき、わたしを惹きつけるということにしぼってみても、あまり思い当たる理由はない。

(P88)
  1. 理学部数学科である。 [↩]

四十の手ならい 和心暮らし

この前twitterで「お茶がやってみたい……」「ああお茶とかお花は何歳になっても『やれ』って言われますよね」「1日体験教室ですね」「この本気になる」とか言ってて、図書館うろうろしてたらこの本を発見したので借りてみた。百聞は一見にしかずといいますが私の周りには気軽にお茶体験できそうなところがありません。

「三味線ざんまい」みたいな四苦八苦体験エッセイを想像してたら「スローライフとはいうけど実際今までのライフスタイルを捨てて田舎暮らしをするのは難しい」「古きよき日本人の心を思い出そう」「和の心はセルフヒーリング!」「自然回帰!」「地球環境保護!」とかそういう始まり方をしました。
文中何度も「私たちの世代はやったことがある(記憶にある)」という文が出てくるので想定読者年齢は40前後なのかなと思いました。

「まずは浴衣を着てみましょう」にはじまり着物の手入れや必要な道具・着付け・お茶・写経・座禅などがありました。大きくページを割かれているのは着物関連とお茶。着付けとかお茶の作法とかは文章で事細かく書かれ、章の終わりにイラストが付いてました。

「高い着物とかいりません!」とか金銭面的にはハードル低い感じでした。ヘタレにやさしい。

芙蓉千里

最初厚さにびびっていたのですが1読み出すとこれが凄い勢いで時間を忘れる小説でした。本読みながら「やばいもう寝んと」と思ったのはなんだか久しぶりな気がするなあ。

時期的には第1次大戦のちょっと前、日本はまだ明治時代の20世紀初頭、中国ハルビンが舞台。
「大陸一の女郎になる!」と自ら人買いに志願して東北地方から大陸に渡ったフミ、フミと一緒に売られてきたタエ、2人が売られた女郎屋酔芙蓉の格好いい姐さんがたの話です。

フミは最初から女郎志望で、タエは女郎になることをとにかく嫌がっている女になりたくないと思ってる実に対照的な2人。フミはどう見ても流血女神伝でいうところのカリエポジションなので、フミはサジェだったらどうするよ……救われるのはグラーシカお姉さまかな……と思ってたらうまいこと共存共栄みたいな感じだったのでほっとする。

近現代に舞台が置かれているため史実もすごく自然なかたちで絡んできます。
蘭花姐さん……!

ちなみに私は山村派です!(何か主張しておかないといけない気がした
しかし黒谷への啖呵切る&宣戦布告シーンは美味しい……

とりあえずsarisariの短編かな……11月の上旬ぐらいまでは公開されてるらしい。
sarisariはエッセイだけは読んでるんですが、携帯で小説とかまじ読みにくい。

「それと同じだよ。踊らなきゃ生きていけなかったから、必死に練習しただけ。辻芸も、畑仕事も、体を売る女郎も何も変わらない。それに私はもう、生娘じゃないからね。今さら、どうってことはないよ」
息を呑んだのタエの顔が、みるみるうちに青ざめていく。フミはひどく残酷な気分になっていた。

(P107)

離れろ。その一心で、ひた走る。離れろ。離れろ。死の空気から。敗北と絶望から。

(P136)

「だから、早く来て。ほんとに来て。私が、諦めてしまわないうちに」
フミは目を閉じた。睫毛が震え、ひとすじの涙が零れる。ああ、夢でもいい。また会いたい。

(P235)
  1. 400ページ近くあります [↩]

RDG2  レッドデータガール  はじめてのお化粧 (カドカワ銀のさじシリーズ)

泉水子は自分の力に向き合うため生まれ育った玉倉神社を出て東京へ行く。
入学した鳳城学園は高尾山の北側にあり全寮制の高校である。泉水子は無試験で入学したが、試験免除で入学できる生徒はそうはいず、中等部までいてもエスカレーター式で進学できなかった者も結構いるほど学力レベルは割と高い。寮は基本的に2人組で、泉水子のように遠方から入学してくるものには学園によく慣れたものが同室として選ばれる。

2巻は「大きな物語への序章」っていう感じで、割と顔見せみたいな感じがします。
しかし相楽父子はとてもよいです。主にはお父さんがよいです。
同室の宗田真響とのあれこれや、ずっとしていた眼鏡を外したり、部活とか生徒会とか。
真響を頼りに他クラスまでやってきたはずなのに深行を呼び出す泉水子とか、それを見て邪険にするでもなく世話をしている深行とかにいちじるしいときめきが。

物語の終盤で日舞がちらちらとできます。なんか最近日舞と縁がある気がします。

ところで、

「南無飯綱大権現と唱えるんだよ。ご本尊は飯綱権現だ」

(P243)

イヅナと聞いてうっかり誰かの嫁を思い出した。

「うかつには近づけない気がする。魅力がありすぎてきっと危ない。とてつもなく悪い人かとてつもなくいい人だけど、はっきりしたころには磁力で離れられなくなっているから、どっちだろうともう遅い——そういう人に見える。遠巻きにしているのが利口かもね」

(P231)

司書はなにゆえ魔女になる

エッセイ。
3部構成で、1部は図書館司書を取り巻く環境とか司書関連、2部・3部は本と映画のレビュー。
どれも大体2ページ以内でまとまる短い話。特に司書の話は馴染みの薄い話なのでちょっと興味深い。

タイトルが気になるんですが1「司書は○○魔女になる」というのは定型タイトルのようなので、おそらく1冊目を読まないと意味が分からないと思った。

  1. 魔女? [↩]

船に乗れ!(2) 独奏

1巻とはえらい色が違います。
1巻はキャッキャウフフしてて青春で音楽でオーケストラなので、さよならピアノソナタとかのだめカンタービレ好きな人はどうですかどうですか書いてた覚えがあるんですが、2巻は「気安く触らないでよ(゚д゚)」という雰囲気です。

これは「現代のサトルが過去を振り返っている物語」という設定で挫折があったことも既に語られていたけど、まさか1冊のうちにこれだけ「挫折と喪失」が凝縮されていようとは思いもよらなかった。

サトルたちは2年生に進学した。今年の1年生は優秀だとか今年のオケ課題曲は去年の夏に市民オケでやったリストの「交響詩 プレリュード」。その日から阿鼻叫喚の日々がはじまる。鏑木先生はまた怒鳴り倒している。
そしてサトルに転機が訪れる。ある日父が笑顔で言った。「ハイデルベルクへチェロを習いにいかないか。(サトル叔父の妻)ビアンカが参加しているオーケストラの主席チェリストが練習を見てくれるといっている」

各所でサトルはぼっこぼこである。ふるぼっこである。
音楽家同士であるため恋人の南にもハイデルベルクに行く際も応援されるどころか妬まれる。
ハイデルベルクでもそのあとも悪い方向にしか転がらないのである。

ラストのサトルが好きだった先生を退職せざるをえない状況に追い込んだことってどうなん! どうなん! ておもった。高2こえー。

つ、つづきを早く……
ブンゲイ・ピュアフルでも読めるけど、縦書きで紙で読みたいし船に乗れ2の様式で行くならいいところで切れてしまう。凄い展開のところでぶった切られたらわたしは しぬ!

南は閉じた口の中で奥歯を噛みしめ、涙のこぼれる目で僕を睨んだ。それは女子高生の可憐な涙なんかではまったくなかった。愛情はあっても理解の薄い環境で音楽に取り組んでいる女性の、裕福で恵まれた環境にいる僕への、どうにもならない悔し涙だった。

(P116)

自分がこれまで、本を読むという名目でやってきたことの正体が、一気に見えてきた。理解できたわけでも、共感できたわけでもない、ただ難解そうに見える本を選んで、さも理解できてでもいるかのように頁をめくり、さも共感できたかのように本を閉じ、その様子がちゃんと周囲の人に目撃されたかどうかを確認する、たとえそこに誰もいなくても、自分自身を目撃者にして、ごまかしてしまう。自分をだます。そんな茶番劇を僕はこれまで何年間も「読書」ということにしていたのだ。

(P176)

「僕が君に、誰も殺させはしないからだよ」先生はいった。「哲学上の結論として、僕は君に、人を殺してもいい、と今いった。その代わり殺されても仕方ないともいったが、それでも殺していいといったことに変わりはない。あれは哲学上の結論であって、君をそそのかしたんじゃない、なんていい逃れをするつもりは僕にはないんだ。人に何かをいう人間は、いったことについて全責任を持っている。とりわけ人の命に関わることはね(以下略)」

(P258)

ほんたにちゃん (本人本 3)

凄く痛い小説だった。作品が痛いんじゃなくて、登場人物が痛いのでもなくて、読んでるこっちの胸が痛い。

学校で飲み会あるって聞いたけど誰にも誘われなかったから「誰かに誘われた」風に店までやってきた。
そこでの「中2病をこじらせた女子(ぼっち)の孤独」描写がとてもいたたまれない。
こんな状況に立たされたらもう泣きながら帰るわな(゚д゚)と思った。
ちなみに私は席移動ができるなら席を転々としつつグラスもしくは酒瓶片手に喋り倒すほうです。

二十歳前ならまだやり直せるよ……むしろ更生的にはラストチャンス……とか思ったり凄くはらはらしながら読んだ。

この表紙は何事だと思ってたけどちゃんと理由があったので読み終わったあと表紙見てふいた。
Amazonレビューいわく「メディアに露出しまくり」だそう1だけど私が見るようなのには出ないらしく見たことはない。
でもどこかで拾ってきたこの本のタイトルは覚えてたのでこの本を実際に読むまでずっと「ほんたにゆきこ」さんだと思っていた。表紙にも大きく「もとやゆきこ」とふりがな振られていて初めて間違いに気がついた。

敗北感。
私の胸に広がる、この複雑な気持ちを言葉にするならばこれだ。敗北。何に敗北したのかはよく分からんよ。でも飲み会で席を奪われ、隣に座っていた人物にはさりげなく移動され、今こうして追いやられるようにみんなから離れた場所にポツネンと佇みながら誰ひとり気にされることなく存在する自分。

(P45)

何しろ昔から『天然最強説』を唱えてやまない私だ。やつらは狙ってないぶん、滑ることを知らない。滑らない人間ほど強いものはない!

(P80)
  1. 書かれた日付を見ると古めだったので今はもう「だったそう」かもしれないけど [↩]