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モリミーとはまた違う意味でファンタジーな「京大生ラブコメ」
京都大学だと明記されてないけどキャンパスの位置とか学生の描写とか寮の位置とかから察するに京大だな(・ω・)と。アリサの大学はぐぐってみたところでは同志社女子大学かなあとおもった。
花は京大文学部の4年生で、就職活動も単位取得も終了しあとはモラトリアムを満喫するだけだ。
七夕の日、花はひょんなことから人気の高い女子大へ通うアリサに誘われ合コンへ行くことになった。
そこへやってきたのが龍彦だった。花は数学が大の苦手で龍彦は数学科1に在籍しているという。花は龍彦に誘われ学生寮のたこ焼きパーティに行ったりデルタで花火をしたりする。
登場人物は他に修治(アリサの彼氏)・アンドウくん・ヤマネくん(龍彦の友人。花を入れた4人でよく遊びまわっている)
お互い大学生で、花は別にはじめての恋愛でもないのにすごく初々しい。キスどころか手を繋ぐような描写さえあったかなあというような感じなのだ。ごはんを食べに行ったり十条まで撤去自転車回収デート行ったりはするのだけど。
ところで「花ちゃん」と関西弁で見るたびにわたしの脳内では「はなちゃん」ではなく「はなちゃん」と再生しよるのでした。山田花子風。龍彦は「数学科の大学生」ということで時々たゆんの偉い人が走っていった。
夜は短し歩けよ乙女の学園祭のシーンで韋駄天コタツがあちこちで出てきて、わたしはこれは「モリミーの創作だろう」と思っていたんだけど、こちらでも学園祭で「何故か設置されているコタツ」が登場しているのでコタツ云々はもしかしてガチで存在するものなんだろうか、と思った。
「地元が舞台の小説」だと近すぎて逆に直視できないところがあるんだけど、京都とか大阪とかが舞台の小説はそこそこ近くて地理がわかって親しみが持てるなあとつくづく思う。
たっくんのことを恋人と呼べるかどうかは別として、少なくともわたしは恋に落ちている。(略)
どうしてこの人なんだろうと思う。客観的に見て、異性にもてはやされるタイプとはいえそうにない。目を引くような美男ではないし、話がものすごく面白いわけでも、ことさらに気がきくわけでもない。世間一般はさておき、わたしを惹きつけるということにしぼってみても、あまり思い当たる理由はない。(P88)
- 理学部数学科である。 [↩]
最初厚さにびびっていたのですが1読み出すとこれが凄い勢いで時間を忘れる小説でした。本読みながら「やばいもう寝んと」と思ったのはなんだか久しぶりな気がするなあ。
時期的には第1次大戦のちょっと前、日本はまだ明治時代の20世紀初頭、中国ハルビンが舞台。
「大陸一の女郎になる!」と自ら人買いに志願して東北地方から大陸に渡ったフミ、フミと一緒に売られてきたタエ、2人が売られた女郎屋酔芙蓉の格好いい姐さんがたの話です。
フミは最初から女郎志望で、タエは女郎になることをとにかく嫌がっている女になりたくないと思ってる実に対照的な2人。フミはどう見ても流血女神伝でいうところのカリエポジションなので、フミはサジェだったらどうするよ……救われるのはグラーシカお姉さまかな……と思ってたらうまいこと共存共栄みたいな感じだったのでほっとする。
近現代に舞台が置かれているため史実もすごく自然なかたちで絡んできます。
蘭花姐さん……!
ちなみに私は山村派です!(何か主張しておかないといけない気がした
しかし黒谷への啖呵切る&宣戦布告シーンは美味しい……
とりあえずsarisariの短編かな……11月の上旬ぐらいまでは公開されてるらしい。
sarisariはエッセイだけは読んでるんですが、携帯で小説とかまじ読みにくい。
「それと同じだよ。踊らなきゃ生きていけなかったから、必死に練習しただけ。辻芸も、畑仕事も、体を売る女郎も何も変わらない。それに私はもう、生娘じゃないからね。今さら、どうってことはないよ」
息を呑んだのタエの顔が、みるみるうちに青ざめていく。フミはひどく残酷な気分になっていた。(P107)
離れろ。その一心で、ひた走る。離れろ。離れろ。死の空気から。敗北と絶望から。
(P136)
「だから、早く来て。ほんとに来て。私が、諦めてしまわないうちに」
フミは目を閉じた。睫毛が震え、ひとすじの涙が零れる。ああ、夢でもいい。また会いたい。(P235)
- 400ページ近くあります [↩]
1巻とはえらい色が違います。
1巻はキャッキャウフフしてて青春で音楽でオーケストラなので、さよならピアノソナタとかのだめカンタービレ好きな人はどうですかどうですか書いてた覚えがあるんですが、2巻は「気安く触らないでよ(゚д゚)」という雰囲気です。
これは「現代のサトルが過去を振り返っている物語」という設定で挫折があったことも既に語られていたけど、まさか1冊のうちにこれだけ「挫折と喪失」が凝縮されていようとは思いもよらなかった。
サトルたちは2年生に進学した。今年の1年生は優秀だとか今年のオケ課題曲は去年の夏に市民オケでやったリストの「交響詩 プレリュード」。その日から阿鼻叫喚の日々がはじまる。鏑木先生はまた怒鳴り倒している。
そしてサトルに転機が訪れる。ある日父が笑顔で言った。「ハイデルベルクへチェロを習いにいかないか。(サトル叔父の妻)ビアンカが参加しているオーケストラの主席チェリストが練習を見てくれるといっている」
各所でサトルはぼっこぼこである。ふるぼっこである。
音楽家同士であるため恋人の南にもハイデルベルクに行く際も応援されるどころか妬まれる。
ハイデルベルクでもそのあとも悪い方向にしか転がらないのである。
ラストのサトルが好きだった先生を退職せざるをえない状況に追い込んだことってどうなん! どうなん! ておもった。高2こえー。
つ、つづきを早く……
ブンゲイ・ピュアフルでも読めるけど、縦書きで紙で読みたいし船に乗れ2の様式で行くならいいところで切れてしまう。凄い展開のところでぶった切られたらわたしは しぬ!
南は閉じた口の中で奥歯を噛みしめ、涙のこぼれる目で僕を睨んだ。それは女子高生の可憐な涙なんかではまったくなかった。愛情はあっても理解の薄い環境で音楽に取り組んでいる女性の、裕福で恵まれた環境にいる僕への、どうにもならない悔し涙だった。
(P116)
自分がこれまで、本を読むという名目でやってきたことの正体が、一気に見えてきた。理解できたわけでも、共感できたわけでもない、ただ難解そうに見える本を選んで、さも理解できてでもいるかのように頁をめくり、さも共感できたかのように本を閉じ、その様子がちゃんと周囲の人に目撃されたかどうかを確認する、たとえそこに誰もいなくても、自分自身を目撃者にして、ごまかしてしまう。自分をだます。そんな茶番劇を僕はこれまで何年間も「読書」ということにしていたのだ。
(P176)
「僕が君に、誰も殺させはしないからだよ」先生はいった。「哲学上の結論として、僕は君に、人を殺してもいい、と今いった。その代わり殺されても仕方ないともいったが、それでも殺していいといったことに変わりはない。あれは哲学上の結論であって、君をそそのかしたんじゃない、なんていい逃れをするつもりは僕にはないんだ。人に何かをいう人間は、いったことについて全責任を持っている。とりわけ人の命に関わることはね(以下略)」
(P258)
凄く痛い小説だった。作品が痛いんじゃなくて、登場人物が痛いのでもなくて、読んでるこっちの胸が痛い。
学校で飲み会あるって聞いたけど誰にも誘われなかったから「誰かに誘われた」風に店までやってきた。
そこでの「中2病をこじらせた女子(ぼっち)の孤独」描写がとてもいたたまれない。
こんな状況に立たされたらもう泣きながら帰るわな(゚д゚)と思った。
ちなみに私は席移動ができるなら席を転々としつつグラスもしくは酒瓶片手に喋り倒すほうです。
二十歳前ならまだやり直せるよ……むしろ更生的にはラストチャンス……とか思ったり凄くはらはらしながら読んだ。
この表紙は何事だと思ってたけどちゃんと理由があったので読み終わったあと表紙見てふいた。
Amazonレビューいわく「メディアに露出しまくり」だそう1だけど私が見るようなのには出ないらしく見たことはない。
でもどこかで拾ってきたこの本のタイトルは覚えてたのでこの本を実際に読むまでずっと「ほんたにゆきこ」さんだと思っていた。表紙にも大きく「もとやゆきこ」とふりがな振られていて初めて間違いに気がついた。
敗北感。
私の胸に広がる、この複雑な気持ちを言葉にするならばこれだ。敗北。何に敗北したのかはよく分からんよ。でも飲み会で席を奪われ、隣に座っていた人物にはさりげなく移動され、今こうして追いやられるようにみんなから離れた場所にポツネンと佇みながら誰ひとり気にされることなく存在する自分。(P45)
何しろ昔から『天然最強説』を唱えてやまない私だ。やつらは狙ってないぶん、滑ることを知らない。滑らない人間ほど強いものはない!
(P80)
- 書かれた日付を見ると古めだったので今はもう「だったそう」かもしれないけど [↩]
絶対、最強の恋のうたの木戸さんが出てきてびっくりした。
「僕」と北海道からやってきた人妻研究員、「僕」の妹、バイト先で出会った坂本のふりをしている木戸さんの話で、僕と恵はすげーバカップルで2人でいるときはなんかずっとキャッキャウフフ話している。
純愛だけど不倫なんだなあと思う。ちょっと蝶々喃々を思い出す。
こっちもどろどろすることはない。喋々喃々と違うのは2人の行く先が暗示されていることかなあ。
木戸さんの登場は嬉しいサプライズでした。しかし「この話はどこに向いていくのんか。……えー終わったー」という話だったなあと思います。
まともなロマンを求める人は、誰からも相手にされず、誰からも大切にされず、一人で守り続けるしかない。本当はこういう人が、人知れず、世界の孤独とか哀しみとかを、一身に引き受けてしまう。誤解は前提で、理想は敵で、正解は最初からないのだ。
(P145)

一応映画がもとにあるけどノベライズではなく原案という扱いになっていた。
かつくらのインタビューでは映画と小説では違う展開と見たような覚えが……
沖縄の離島、主に南風原島1・石垣島の辺りが舞台。
ぐぐってみたところ、収録されている3作のうち映画が下地となっているのは最後の「群青」
ピアニストの由起子が南風原島へ来て、島一番の漁師である龍二と出会いの話「紺碧」
龍二と由起子の娘、涼子と幼馴染みの一也・大介の小学生時代の話「三原色」。
「群青」に関しては相当ベタな部類の話だと思います。恋愛と別れと再生とエロ。
「R-18な幸福な食卓を沖縄でやってみました」みたいな?
これは心理・情景描写が好きなのでたぶん映画は見ないほうがいい気がするなあと思いつつ、読んだ後映画情報を見に行って龍二役が佐々木蔵之介と知って驚く。もっと屈強な海の男を想像していた。2
木陰から見える海と空は刻々と黄金に染まりゆき、西に傾いた太陽が一也の柔らかそうな前髪を茶色く透かす。美しい少年だ、とその横顔を眺め、涼子は思う。小学生のころ小さかった背は中学に入ったとたんぐんぐんと伸び、今や大介を追い越すか追い越さないかの勢いだ。そして放課後、週に三日は漁協の船に乗って潜りの練習もしているため、身体じゅうにしなやかで弾力のありそうな薄い筋肉がついていた。美しい身体も顔も、きっと海の神様に愛されているのだろう。
(P84)
家に帰れば待っている家族が居るというのに、何人もの漁師が命を落としているというのに、懲りもせず、死んだ漁師の魂が漂っている海に、生きている漁師は潜る。(略)肩で息をして水面を睨みつけるあの男の顔は本物だった。五分間、何も聞こえず、空も見えず、足場も見えない海の中で、やつは何度死の訪れを見ただろう。
幻想成分の高い現代の話。高校生が主人公の現代ファンタジーかと思いきや現実が容赦なく襲ってくる。
君枝は不思議な現象にまきこまれる体質の持ち主だ。
例えばトルソーが喋ったり、教室に水が満ちてきて外へ泳ぎ出したり、リコーダーに毛が生えたりしている。自分以外のだれにもそれが気がつかない。梨屋アリエ作品にはほかにも「不穏な気持ちが踏み切りの警告音として現実に現れる」話や「文字通り地面に足がついてないちょっと浮いている人」の話があったけど、君枝の場合は夢のような話に終わらない。事態は深刻になる一方だ。
連作短編で、時系列ばらばらに収録されている。
高校生だったかとおもえば次は小学生、短大生、また小学生、結婚後とか移り変わっていく。
不思議体質は消えることなくずっとついてくる。それが原因で就職やら恋愛やら上手くいかないことも多々ある。
幼馴染みの陸以外に君江の不思議体質に理解を示すものはいない。
正直行くところに行けば○○病とか××症とか精神的な病名がつくんではないかと思うような感じなのだ。
この幻想描写は何かの比喩でたとえば「社会に適応して生きていけない人」の話で、そこから話が転がってトルソーさんは「現状で満足してたのに新しい世界を知って、新しい世界を羨む気持ちと現状への悲しみを覚えた人間」なのではとか思ったら何だかすごく怖くなった。
君枝は陸と一緒の子ども時代を除けば凄く孤独だ。いつか幸せになれるんだろうかと思ってはらはらした。
読んだ後すごく背中が重くなった。物悲しい気分が残る。しょんぼりした。
「オレって『出会わない系サイト』に名前が登録されてるんじゃないかなあ」
部活の後の、いつもの駄菓子屋でのことだ。
「なにそれ」
「出会い系って、出会いを求めて書き込むんだろ。逆に、出会いを求めない人が書き込むお断りサイトがあったっていいだろ? そんでオレの名前が何者かによって『出会わない系サイト』にイタズラで書き込まれてるんだよ。オレの砲丸投げの美しいフォームを見て、惚れる女がいないなんて、ぜってぇーおかしいもん。そうに違いない」(P34)
ううん、今も彼のことが好きなはず。嫌いになる理由はないし、少し離れたからって、気持ちが冷めたりするはずはない。でも。最後のデートはいつだった? 次に遭う約束は、いつだった? 約束を、いつからしなくなったんだろう?
(P134)
不思議体質なんて、うんざりだ。ふつうになりたい。この世界に適応したい。
(P164)








