貴瑚(きこ、あだ名はキナコ)は東京から大分の漁師町にある亡祖母の家へ逃げるようにして引っ越してきた。役場の歓迎ムードとは裏腹に無職のキナコに田舎の閉鎖的な空気は厳しい。わけありそうな雰囲気、働かずとも金銭面に不自由していなさそう、憶測が憶測を呼んで「あいつは風俗嬢だ」と根も葉もない噂が流れて時折突っかかってくる住人がいた。

ある雨の日、かつて包丁が刺さったもう治ったはずの傷が強く痛みうずくまっているところを子供が通りかかった。なんとか足止めして家に連れ帰り、一緒にお風呂に入ろうと服を脱がすと肋骨の浮いた薄いからだと、明らかに虐待によってつけられた多くの傷が現れた。女の子だと思った子供は男の子で、口がきけなかった。

2021年本屋大賞受賞作。
去年の本屋大賞受賞作「流浪の月」とは多少似たところがある。本作の2人、キナコとのちに52と呼ばれる少年が抱えているものは傷だ。傷つけられ奪われ愛されなかった過去を背負っている。キナコが寂しくて狂いそうなときに聞「52ヘルツのクジラ」の鳴き声を52に聞かせると全身を振わせて泣いていた。52ヘルツの鳴き声は周波数が違うから同族のクジラには届かない。近くに群れがいたとしても気づかれない世界で最も孤独な周波数だ。
キナコの52ヘルツの鳴き声を受け止めてくれた人がかつていた。今はもういない人だ。

生きづらさ、虐待、ヤングケアラーと、物語は進むにつれ深度を下げていく。何とか生きてきたバックグラウンドがかなりしんどいものだ。軽さは微塵もないが、物語に引き込む力がすごい。著者略歴を読んだら「女のためのR-18文学賞」大賞でデビューとなっていて、そりゃあわたし好きだなと思った。宮木あや子、豊島ミホ、窪美澄、山内マリコと「決して明るい物語ではないのに物語の引力がすさまじい作品」を書く人がよく生まれてくる賞と思っている。良いものを読んだ。